人物 わ行

渡辺守綱(わたなべ もりつな)1542-1620

守綱は、若い頃から同年生まれの松平家康(のちの徳川家康)に16歳で仕え、17歳で初陣した。槍が得手であり、永禄5年(1562年)の三河国八幡の合戦で今川氏家臣・板倉重定に敗れた際、後尾にあって奮戦した事以来「槍半蔵」と呼ばれ、「鬼半蔵」の服部正成と並び称された。
しかし、熱心な一向宗(本願寺)の門徒だったので、翌永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆において、他の門徒家臣と同じく家康に背き、一向一揆に加わった。一揆が家康によって破られると反逆を許され帰参し、以後は家康の主要な戦いの大半に参加。
姉川の戦いでは、旗本一番槍をあげるなどの戦功を重ね、旗本足軽頭として出陣した三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。なお、長篠の戦いでは山本勘助の嫡子・菅助を討ち取った。
天正18年(1590年)、徳川氏が三河から関東地方に移封されると、武蔵国比企郡に3,000石を与えられた。慶長5年(1600年)には長年の功績を賞せられて1,000石を加増、騎馬同心30人の給分6,000石を付属させられ、足軽100人の組頭となった。
慶長13年(1608年)、家康の直命によって尾張藩主に封ぜられた家康の九男・徳川義直の付家老に転じ、武蔵の4,000石に加えて尾張国岩作(愛知県長久手市岩作)で尾張藩より5,000石、三河寺部(豊田市寺部町)で幕府より5,000石を与えられ、併せて1万4,000石を領して寺部城を居城とした。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に出陣して藩主・義直の初陣を後見。元和2年(1616年)の家康死後、領国尾張に入った義直を直に補佐し、元和6年(1620年)に名古屋で死去した。享年79。
のちに、その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。

和田義盛(わだ よしもり)1147-1213

三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。治承・寿永の乱では源範頼の軍奉行となり、山陽道を遠征し九州に渡り、平家の背後を遮断した。平家滅亡後は奥州合戦に従軍して武功を立てた。頼朝の死後、梶原景時の変での景時弾劾追放では中心的な役割を果たし、比企義員の変や畠山重忠の乱などの御家人の乱では北条氏に与した。しかし、2代執権・北条義時の挑発を受けて挙兵に追い込まれ、幕府軍を相手に鎌倉で戦うが敗死し、和田一族も滅亡した(和田合戦)。

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